ありここ

# 9



カミュに説明は要らない。彼女は私の伝えたいことがわかる。
特殊な能力を持っているわけではなく、私と同じ波動で呼吸しているからだ。
私たちは、同じ人が作った綿アメなんだと思う。

 空色かみゅ (本名 カミモト メグミさん


名前 : 空色かみゅ (本名 カミモト メグミ)
年齢 : 30歳
職業 : 歌うたい、まほうのしずく店長、
    タイ古式マッサージセラピスト、
    エッセイイスト
国籍 : 長野

Q1: 現在の生活にいたるまでの経緯は?

 私の手を見つめると、そこに自分のルーツが見える。  少しカサカサした肌が、指圧師であった父の大きな手にそっくりだということ。  そして自分の指先が、繊細な母によく似ていること。 それはそれは、沢山の人の血を受け継いだわたしのカラダ。そして私の魂。

 小さな頃から、月や星、太陽、山や水、火、
そして目には見えない何かに、いつも沢山のインスピレーションを与えてもらう私は、歌うこと、踊ること、描くこと。 そして文章で表現すること。そんなことがとても好き。  だから、両親から恵という名を授かったのでは?と、最近思っている。 自然の恵み、人からの恵み、天の恵み、すべてから恵まれる子に、そして恵みを与える子に。

 空色かみゅという名前は、自分がつけた名前。
当時私は23歳。都会での生活にうんざりして、流行ばかりのアパレル店員の仕事を退職し、
井の頭公園で自分が描いた絵や写真を売っていた。
空色のコートを着てペンを持ち、大地にお尻をつけてる自分が、とても好きだった。だから空色。
何もない空に憧れて、そして私は大地の上で色を奏でる。 かみゅは前の職場でのあだ名。

 長野に生まれ育ち、見飽きた山や田んぼの風景から一度は出てみたかった東京に、20代前半暮らした。  そこでの暮らしは、夢見た明るいものとは逆に、異常なまでに私を「病気」にさせた。
こころを、カラダを。
「不満はないはずなのに。」 そう自分に言い聞かせていた私は、何が原因なのかも気づけず、水槽の魚みたいにもがいていた。
変なプライドが邪魔をして親にも苦しみを話せないまま、当時5年間同棲し、婚約していた彼とも別れることになり、真っ暗になった私のこころ。
それでも長野には帰りたくなかった。さあ、どうしよう。 そこに、かすかに浮かんだ希望の光。
それが「バリ島へ行きたい。」という気持ち。

 きっかけは六本木のクラブで見たバリ舞踊。タバコ臭いハコの中、鼓膜のすぐそこで音が鳴る。
ハウスのダンスショーが行われるイベントだったのだが、私は彼らのカッコよさだけを見せつけるようなダンスの発表会に正直、飽き飽きしていた。 そんな中、私の目を釘づけにしたのが黄金のオーラを放つ、スペシャルゲストとして参加していた彼女のバリ舞踊だった。
痙攣した指先が繋がる先は、一体どこなのだろう。ぎょろ、ぎょろっと動く目が見つめてるものは、一体なんなんだろう。 彼女が舞うたびに私の足は震え、心の奥底から熱い何かが溢れだした。
こんなにも魂が揺さぶられる衝撃に、生まれて初めて私は出逢った。 しかしその舞踊がなぜここまで私を魅了したのかは、そのときの私にはまだ分からなかった。 ただ、求めていた何かを、きっとそこに見たんだと思う。乾ききって、真っ暗になってしまったココロだからこそ、 本当に自分が今必要としていたものが、輝いて見えたのかもしれない。

「あの不思議な踊りを生み出した国に足を踏み入れてみたい。いますぐに。」  初めてバックパックを背負って、バリを旅することにしたとき、 私はいつも飲んでいた精神安定剤をお守りにしていた。 そんな精神状態の私に、バリのお香を絡めた濃密な空気と、これでもかってほど生い茂る緑、 そして降り続ける雨と共に聞こえてくるガムランの音、人々のゆっくりとした、自然と神様と調和した暮らしのリズムは、 私の都会での生活で溜めたすべての毒素をザーザーと洗い流し、やわらかな光のタオルで生まれたての赤ちゃんを包むようにそっと癒した。

行先も、宿も、何もかもまったく決めずに、流れのままに旅した30日間。 月が美しくて、美しくて、ただただ涙を流したりもした。 小さな島で、裸の少年たちがヤシの木に登っては飛び降りて海へ向かっていく姿を、 自分も無心になって追いかけたりした。今まで感じたことのなかった不思議な体験も沢山起こった。
 そしてウブドで、私は私をここへ導いたバリ舞踊を見た。私はその世界に吸い込まれすぎて自分がおかしくなってしまうんじゃないかと不安になって、必死に自分の手をつねった。
踊り手さんの身体がすべてひとつのエネルギーの塊のように見えた。この舞踊は指先から目の動きひとつひとつにまで魂が行き届いていて、そして神様と繋がっている。
しかしすべての踊り手さんがそうではなかった。そういうエネルギーを持った人と、そうでない人といて、 私は一体どこでそれを判断していたのかは分からないけれど、踊りに対して素人の目でもそれは十分に伝わってきた。

「私にも、魂があるんだろうか? いや、きっとある。あるからこんなにも、今腕をつねって鳥肌をたててるんだ。」 その感動は私を癒し、そして私の中に眠っていた魂の光を目覚めさることになった。
バリ舞踊は習わなかったけれど、後に私は、自分が持っている手段を使って、それと同じようなことをすることになったのだ。

 旅中、私は誰にも監視されていなかった。職場の上司からも、誰かが決めたルールからも、みんなが常識だということからも。こうでなくてはならない、生き方からも。 私のことを誰も知らない。
その解放感の中で、やっと、私は「わたし」と会話するチャンスをもらえた気がした。
そして私は帰りの飛行機に乗る前に、お守りにしていた薬を、すべてゴミ箱に捨てた。
私の中で失われていた何かを、私は手にして帰ることが出来たのだ。

 飛行機から眺めた夜空に浮かぶ満月は、いまでもよく覚えている。 日本に帰ってきて一番に入ったコンビニの目がぱきっとするまぶしさとは、天と地の差。 真っ黒に日焼けした肌、薄汚れたバックパック。見た目は小汚くなっていたけれど、私の魂はあのバリの植物たちのようにキラキラしていた。

 私が日本に帰ってきてはじめて描いた絵は、海の中で、裸で身体を大の字に広げている私の姿だった。  旅をして、いろんな人の生き様や、世の中のとらえ方、雄大な自然などに触れ、自分がどれだけ「ただの外見」に意識が向かっていたかを初めて知った。 自分が生まれ育った日本という国だけが、この世のすべてではなかった。 誰かが生み出した考え、誰かが流行らせたファッション、大好きな彼が好きな音楽。 今までの私はいつも、誰か色に染まっていたんだ。

そして私はまたすぐに旅へ出た。

次に旅した国はタイ。本当の目的はインドで、タイはインドに行くために寄った感じだった。
でもせっかくなら何か学びたいと思い、人を癒す手法として学んだ「タイ古式マッサージ」。
結局は自分が一番癒されていた。タイ式マッサージを通して、自分のカラダの声を感じることの素晴らしさに気が付けたことが、一番の喜び。 そして、死ぬまでに絶対に行ってみたかったインドへ。
私が隠し持っていた種を、自らの手で育て、発芽させる感動に気がつかせてくれたのがインド。
流れのままに、そしてあるがままに。

 出逢う人はみな、私を映し出し、様々なことを教えてくれるメッセンジャーの様だった。
すべての体験が、私をどんどん「内側の世界」に気付かせてくれるようになった。 ちょうど脱ぎ捨てたヒール10センチの高さ分くらい。 私は裸足になることで、大地に近い人になると共に、本当の自分とも近づいたのだ。 そして私はこの旅の終着地に、地元長野を選んだ。

 旅をして、自分が生まれた場所が、とても美しいということに初めて気が付いたのだ。
恵まれた自然、豊富な果物、野菜、大地、気候。そして家族。そこにはかけがえのない宝物が沢山存在していた。  私は忙しかったあの都会での生活の中で、いつの間にか自分自身の「人生」という宝物を、他人や何かに預けてしまっていたのだと、 旅を通して嫌という程、気が付かせられた。

それから、私は 「私の生き方」を探し始めた。
自分の目で見て、自分のハートで感じよう。
自分の口で言葉を話そう。
自分の本当に好きなことをして、生きていこう。
そう決めたの。

ロボットの様に働いたり、無駄なことに時間をとられることは、もうしたくない。
義理で誰かとお茶をしなくてはいけないような、そんな仕組みも、さようなら。
そのうち、民族楽器と出逢って、その音の響きに、自分の中の〜太古からある何か〜が芽生えた。 宇宙と大地と自分を融合する乗り物のように。 あのとき衝撃を受けたバリ舞踏と、どこか通ずるものがある。たぶん、わたしはそういう表現方法が、自分をもっと深く知るために必要だったのだと思う。

 2008年長野にて、ある男性との出逢い。 彼が歌うとき、私の中からあり得ないほどの沢山のハーモニーが誕生した。 「きらめく魂の旅人〜ディーカオンカ〜」という音楽ユニットを結成。
インドを半年間二人でまわり、旅先で出会った人たちとの共鳴空間を楽しみながら即興ライブをし、 満月や新月に合わせた集いや、 ドネーションライブやCDで頂いたお金で旅して周ったり、インドの砂漠で現地の音楽家たちのショーに参加し、共に生活していたことも。

 2010年、インドから帰ってきて長野でタイ式マッサージを仕事にしていた私に、彼との間に子供を授かり、妊娠6か月の時にタイへ渡った。
この子を迎える場所を探す旅を続け、臨月の少し前にやっとこ巡り合ったPAIという村のタイ人アーティストの友人の土壁の家。
空色の蚊帳を張り、天井からロープを吊るし、お産するステージを整えた。そして子供を先生や助産師さんがいない中でのプライベート自然出産。

 病院を否定するわけではないが、私にとって気持ち良いお産のヴィジョンは病院ではなく生活の中にある、「彼と私と子供だけの気持ち良いお産」だった。  長野では色々なしがらみに自分自身が飲まれてしまうそうで、それが実現出来そうになかったが、大好きだったタイランドという導きが私達を照らした。
初めてだったが 「お産ピクニック」 と自分で題し、自分のこころとカラダの感覚と子供の生命力、
そしてすべての流れに身を任せるという覚悟を決めたお産は、とても神秘的で愛に満ちたものだった。お産は宇宙そのもの。このあるがままのお産は、私が私と出会う旅、本来持つ自分の力を開花させる旅をしてきた、ひとつの終着点のような気がした。 一切の薬を手放し、ベジタリアンになって4年目だった。妊娠中は瞑想と呼吸法、YOGA、夜空の下のトイレで、自力のお産への身体を整えた。

 「助産師さんもいない状況で?!」と、よく驚かれるが、私にとっては、だからこそのお産だった。 女性に生まれた私が、初めて自分の「メス」である部分を120%開花させた そんなお産のフィナーレは生命の賛歌が大地より鳴り響く朝のこと。 最高のエクスタシーに溢れた。本当に気持ちがよかった。
キャンドルが燃えつき朝の光の中で生まれた子は、お月さまや太陽のようにまんまる。 彼女を抱いた時、「私はやっとあなたに逢うことが出来た。」と、深く感動し沢山泣いた。 それは遠い遠い彼方から、約束された出逢いのようにさえ感じた。 へその緒は一晩経ってから彼が切り、胎盤は産後の肥立ちにいいと聞き食べ、食べきれなかったものは庭に埋め、そこに木を植えた。 それはとても美しい、幸せに満ちた時間だった。

 母になった私には、随分と変化が起こった。今まで気がつかなかったことも、色々見え、あきらかに私自身の人生のネクストステージに変化したと感じていた。 自分のことしか考えてなかった我まま娘が、初めて自分以上に大事なものが出来たのだ。 彼とは結婚しなかった。家族は一緒に暮らすもの。と頭から決めていた私だったけれど、そうじゃない暮らし方も十分にあり得る。 現時点では、私は私の母と娘との三人で暮らすこの毎日に、暖かい穏やかな喜びを感じている。彼はいつでも、私に様々な気づきと難題を与えてくれる、 不思議な存在。

 娘を連れ帰国し、次に起こったことは、死と向き合うことだった。
いつも私の帰りを待っていてくれた父を、次は私が永遠の彼方へ見送ることに。
「めぐちゃんは、大きな心を持っているからな。忘れるなよ。」 父がお産の前に私に送ってくれたエールの言葉。 心配ばかりかけてしまったけれど、命を繋いでくれた父に、いつも私の一番の応援団だった父に、本当に感謝している。 ジプシーのように旅ばかりしていた私。
でもついに、娘の愛の重さと共に、根を下ろす時が来たと感じた。

Q2: 日々の暮らしについて

根を張ろうと決めた私にご縁があり、2011年4月、こどもと一緒に楽しめる、人と人とが自然と共にある生き方を通して繋がる場所を、 「まほうのしずく」と名付け、姉妹店のasian night market の代表サンボ氏を筆頭に、仲間達とすべて手作りで創りあげた。
〜こころがほっとする、カラダが気持ちよく呼吸する、そして暮らしを豊かにする〜 をテーマに、
作家さんの顔が見えるものや、自然素材のもの、フェアトレードのもの 旅先で見つけた素敵なものなどを集めたお店を、長野駅前で開いている。 前世では夫婦だったかもしれない(?)しっかり者の友人れいちぇると、仲間たちと楽しく働いている。れいちぇるにも4月に赤ちゃんが生まれた。
お店は授乳やオムツ替えもできる。赤ちゃんや子供たち、そして大人も楽しいお店、なぜか「ただいまー!」って言いたくなるようなそんな場所にしたい。


大量生産とは逆を行くような、ひとつひとつがストーリーを持っている、そして一人一人が存在感があるということが魅力のまほうのしずく。 そしてそのまほうのしずくは、お母さんのおっぱいのように、栄養満点! 都会で私が見失ったような乾きを感じてる人たちを癒すような、旅の中で気付かされた心の豊かさの中にある流れが味わえる場所であり、 そして本来の自分の持っているすばらしい種を目覚めさせ、お互いに開花し合える流れをここでも作りたい。

2階のフリースペースは、そんな流を生みだし、つなげる場所。知恵を持ちよるワークショップや、手作りのものの展示会、ライブなど行っている。 今年2月はありここさんの「新月の集い」が行われ、とても素敵な始まりを迎えることができた。

去年は娘をおんぶしながら店番したが、色々考えた結果、思い切って彼女を保育園に通わせることに。 働くシングルマザーとして、 日々いろんな葛藤はもちろんあるが、 お客さんやご近所さんにいつも「元気してるの?」と声をかけてもらったり、私自身育児の孤独さは味わったことがない。ありがたいことに。

音楽の活動はお産を期にしばらく休んでいたが、 娘との日常から生まれる愛を、詩にするようになった。これは大きな変化。
八坂村という山奥の村で家族と暮らしているピアニストの朋さんと、最近はインスピレーションライブをやったりしている。 彼女から生まれるメロディと、わたしから生まれる歌は、瞬間の狭間でとても深い部分で結びつく。
本当に毎回素敵な曲が生まれている。
私は授乳しながら歌ったり。朋さんは娘に話しかけながらピアノを弾いたり、(笑)どこまでも自然体。そのまんんま。
 8月8日に全国で外で授乳することを自由に!という同時授乳のイベント〜ナースアウト〜があったのだが、
ナースアウトin長野にておっぱいの歌を作り歌った。
私自身、二歳の娘にまだ授乳育児中。そんな日々の暮らしから感じた気持ちをそのまま歌っている。
お母さんになる前の私の歌は、どちらかというと天や目に見えない何かに捧げるような歌を歌っていたけれど、 今はすぐそばにあるかけがえのない暮らしの中での歌へと変わっている。

空色かみゅ ライブ映像 〜おっぱいタイム〜  http://www.youtube.com/watch?v=3UEiRuh24-s
朋さんとの即興ライブ 〜はらっぱのーと〜 
http://www.youtube.com/watch?v=2Kmn1pc0QKI&feature=channel&list=UL
まほうのしずくブログ http://chapathi.naganoblog.jp/

Q3: 将来のプロジェクトは?

遠い未来まではまだピンとこないので、身近なところで。
「まほうのしずく」に、たくさんの気持ちが通う仲間達が集まり、その時一番わくわくして面白いことをしていくこと。 あとは歌や文章という表現を通し、みんなと繋がっていきたいな。
「本来のメスの可能性を最大限に生かす、気持ちいい〜〜お産」の自らの体験記
〜お産ピクニック〜 の本を書き上げ、 「お産は恐怖」という負のイメージを持った妊婦さんから恐怖を手放し、 妊婦さんが本来持っている「母性&メスの力」を高めていくメッセージになればいいなと思っている。 バリとインドの面白い旅の中の物語もあるし、ただいま本を出してくれる出版社さんを探しているところ♪

暮らしの中から紡ぎだされた詩をうたい、みんながほろりと暖かい気持ちになれるようなライブ空間や、 9月に第二子出産予定の朋さんとのセッションの中から生まれた曲のCDアルバムも、のちにリリースする予定。

あとはもっと土や森の空気を感じられる場所で、必要なものは自分で作って暮らせるようになるといいな。
どこでも、何をしていても、私に与えてもらった種を出来る限り開花させて、 これからもおいし食卓を家族や仲間たちと囲み、楽しく生きていく。


私は苦手なことも多いから、得意な人に助けてもらって♪♪ 
そして私もみなさまのお役に立てますように

Q4: 好きな本、映画、音楽。

本 : 佐藤初女「いのちの森の台所」
ごはんを作る時の気持ち、「いただきます」という時の気持ちが随分変わった。

音楽 :
「魂を揺さぶるもの」と「穏やかな気持ちになれるもの」「想像力が湧くもの」が好き。
最近のお気に入りは、借り暮らしのアリエッティのサントラ。

映画 :
色々あるけれど、小さいころから好きなのは「風の谷のナウシカ」 何度見たことか。
共存、バランス、私の人生のテーマにも合ってる映画だと思う。
世界観や風の谷の人々の暮らしの風景(村の雰囲気や家の作り、衣類も含め)がとても好き。
小さいころから、ナウシカのように、凛と強く美しい横顔になれたらと思っている。 

ありがとうございました。
みんなの暮らしが今日も小さな幸せに溢れていますように。

2012 / 9 / 2 掲載

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